先日、新宿のマップカメラの地下で
「昭和の東京 路上観察者の記録」を見つけたので買ってきました。
路上観察学と言えば赤瀬川源平さんを頭とする<街の超芸術>を探し出す会である。22年間メンバーが世界の街を歩いて探したちょっとおかしなモノを、今回は東京で見つけたものに限ってまとめたものだ。いわば路上観察学会の原点と言える作品の集まりだと思う。
路上観察の成果はカメラに収めるものであり、そして赤瀬川さんと言えばクラシックカメラに造詣が深い方であるからこの本は写真好きが楽しめる本にもなっている。ただしカメラがどうだ、写真がこうだという話は一切ない。
さ
て、この本の主題である「
東京の街にかつてあったおかしさ」。かつての街にそんな面白さがあったのは、あとがきでの建築家藤森さんの言葉どおり、職人が
1つ1つ手仕事で仕上げる文化が残っていたからだろう。いや文化なんてものじゃなくて、そうしなければ単に必要なものを作ることが出来なかっただけだった
と思われる。しかし結果としてそれが文化となった。
なぜならそれ以降、俺の記憶に残る時代以降は、工場で大量に作られた均一な素材を使ってどこも
かしこも同じものが作られ、さらに具合の悪いことに「どの店でも同じサービスが受けられる」という謳い文句のもとにアメリカからコンビニエンス的、ファー
ストフード的均一文化が流入して世の中がアッと言う間に金太郎飴化した。一瞬オシャレでステキだと思ったが、今となってはそんな文化に辟易している日本人
は少なくないに違いない。
手作り文化の微笑ましく、そして直接知らなくても妙に懐かしく興味深いのは、
1つ1つ手仕事で仕込まれたものが放つパワーによるものなのだろう。歩いていてそんなオーラを感じたらカメラを向けずにはいられない。
さて、学会員の1人、昔はよくテレビにも登場した南伸坊さんがあとがきでとても良いことをおっしゃっていた。
しかし、写真というものは見事なものだ。まだ光り輝く前のモノも、そのころ慌てて定着しようとしていたモノの横に、いっしょに写っていて光りだしてくる。
写
真はアップだけではダメだ。引いた画も撮っておくべきなのだな、とそういう時に思う。何を撮ったのか撮りたかったのかが分かる写真も時におもしろいけれど
も、時の流れのうちに変質していくもの、時が過ぎることで価値を重ねていくものを写すのは、むしろ無造作に撮られた写真なのである。
十数年前に撮った写真を久しぶりに眺めたとき、狙った被写体そのものよりも、期せずして写っていた周囲のよけいなものに感心するという経験は少なからずあるのではないだろうか。
まさしく写真というものは不思議なもので、時間の経過により醸成される絵というものがある。本当は見る側の心が変わっているだけで写真の方は不変なのは言うまでもないが、そんな錯覚を覚えさせる力が写真には確かにあると思った。
フレームいっぱいに迫力ある画像を入れたいから近づきすぎていた。
引いた画を撮っておこうではないか。
いつの日にか、今記録したメディアが世代交代し、引き出しの奥底から何十年ぶりに出て来たコンパクトフラッシュがおいそれとは見られないなんていう時が必ず来るはずだ。
そんな時でも銀塩写真はダイレクトに画像を我々に見せつけてくれる。ああ、なんと銀塩のすばらしいことか!
...さて、9月の写真展のために東京をどう撮るか実は考えているのである。カメラを買っている場合ではなくなって来たのである。